割り勘が当たり前になってきた日本。でも、タイでは奢り奢られが当たり前。とりわけ、立場が上の者が下の者に割り勘を求める、なんて言語道断の行為。今回はその辺りの事情を説明します。
人間関係を円滑にする方法
タイではケチな人物は嫌われます。
ケチは日本人が思っている以上に悪であり恥であります。
ただし、自分自身に対するケチ、日常的なケチは問題ありませんし、前回書いたように、人に金を貸すような場合は、金を貸し渋るケチだと思われていた方が得策です。
では、どのような場合にケチであってはならないのでしょう。
それは、メンツに関わる場合。
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たとえば、親族、会社関係、友達同士、隣近所、人か集まって飲食する場合。
進んで財布に手をかけた方が好印象を持たれ、人間関係が円滑になります。
特に、メンバーを見渡して、自分が立場的、経済的にも上だった場合、もしくはそう思われている場合は金を出すべきです(田舎では、たいてい日本人が支払うはめになります。悲しいことに)。
このような場でケチな人はメンツを無くしたも同然。器量の小さな人物と見なされます。
割り勘好きの日本人
日本人は割り勘が好き。
特に今の世代の人たちは奢ったり奢られたりが苦手。
奢られてばかりだと上下関係ができるし、何を言われるかわかったものではない。
対等であるためにはときどき奢り返さなければなりません。
それなら、最初から割り勘にした方が面倒がなくて良い。
こういうことではないでしょうか。
割り勘はあり得ないタイ
対しタイでは、よほど親しい間柄でない限り割り勘にすることはありません。
奢るか奢られるか、です。
とりわけ、立場が上の者が下の者に対し割り勘を求めるのは言語道断。
会社の部下を誘って支払いは割り勘、なんてあり得ません。
信頼関係を壊しかねない行為です。
対等の付き合いであっても、毎回誰かが志願して持ち回りで払い、あまり割り勘にはしません。
タイにはタイの常識がある
娘のワカメが日本の女の人に食事を誘われたときのことです。
娘より五つほど年上の彼女は食事を済ませた後、自分の分だけをさっと払いました。
「そんなの当たり前でしょう」
今の日本だったらまったく問題はありませんよね。
でも娘は呆れてました。
「自分が誘っておいて、自分の分だけ払うなんてあり得ない。しかも年上でしょ」
これがタイ人一般の反応。
割り勘は日本人にとって気持ちよのよいことであっても、タイ人にとっては快いことではありません。
奢るとはもてなすこと
「奢ってやったのに、礼を言わない」
「奢られるばかりで、奢り返さない」
タイの人にこんな不満を抱いたことはありませんか。
「奢る」はタイ語でリヤンと言いますが、意味が似ているというだけで、同義ではありません。
リヤンの元々の意味は「養育する」「育てる」。
飲食に使うと確かに「奢る」なのですが、本来の意味の「養育する」「育てる」から考えると、どちらかといえば「もてなす」に近く、人間関係を育て円滑にする、ということではないでしょうか。
「奢ってやった」意識の強い日本人
日本人はよく「奢ってやる」「奢ってやった」とか口にし、奢る方が上にある感覚です。
対しリアンは「もてなすから一緒に飲み食いしようよ」の感覚です。
後日「あのとき奢ってやった」などと口にするタイ人はあまりいません。
何が言いたいかと申しますと、日本人は「奢ってやった」という意識が強く、
「どうもその節はありがとうございました」
とか、奢られた方が後々まで下手に出なければならない風潮があります。
「奢ってやった、もらった」感を持たないタイ人
タイは相手の気持ちより自分の気持ちを大切にします。
「奢る」ということは、自分が「奢りたい」「相手によくしたい」という気持ちがあってのことです。
たとえ何らかの下心があり、見返りを期待していても、それは相手次第。
「奢る」という行為自体に対しての礼とか恩は求めていません。
日本人のように「奢ってやった」という恩着せ感覚を持たないわけです。
奢られる方としては、よくしてもらった嬉しさとは別に、先の「奢りたい」という奢り手の気持ちにわざわざつきあってやった、というタイ独特の理論があります。
ですから、日本人のように恩に着たり丁寧な礼を述べたりはしません。
「ありがとう」と一言言えば、その場ですべてが清算されます。
奢られたから奢り返さないといけない、ということもなく、機会があれば、という程度で十分です。
ようするに、奢っても礼を期待せず、奢られても律儀に貸し借り勘定なんてせず、気楽に自然に楽しめばよい、ということになるでしょうか。
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