日本人は人を人前で叱るけれど、これはタイで絶対にやっていけないことの一つである。叱れるようなことをしたのだから当然、なんて考え方はタイでは通用しない。それはどうしてなのか、という話。
人に注意するのが好きな日本人
日本では正しいと思えばけっこう誰にでも場所を問わず平気で注意する。
それが世のため人のためと信じられている。
日本は個人よりも世間、公を優先する社会で明確な社会的善悪の基準がある。
それに反すれば叱られて当たり前。
叱られるようなことをするから悪い、ということだ。
タイ人があまり人に注意しない理由
タイはまず個人があって公がある。
社会中心の日本では自己中心的なことは咎められるけれどタイの場合、自分は絶対に善、正義、というところからすべてが始まっているから自己中は当前。
社会的な善悪よりも個人的な善悪が判断の基準になる。
つまり、自分にとってよいことが善、悪いことが悪。
自分の生き方にケチをつけるものはすべて悪なのである。
逆にいうと、安易に人に注意をすることができない。
相手が間違っていると思っても、それが直接自分の利に反しない限り極力口を出さない。
タイ人から見た日本人の嫌なところ
たとえば、日本人はゴミを指定日以外に出したり分別していなかったり、決められたことを守らない人が許せない。
自分が迷惑をこうむるわけではないにも関わらずである。
中には正義のためとばかり見張ってまで犯人を探し糾弾しようとする人がいる。
タイの人たちからすれば異常な行動である。
実は、日本企業に勤めたり日本人と結婚したりして日本人と関り合いをもつタイの人たちから見て、日本人の一番嫌な点がここなのである。
どうしてそこまで細かく人のことに干渉するのか。
どうしてすぐに人を叱りつけるのか。
直接の害を受けるならともかく、まったく無関係なことにまで口を出すのはどうしてか。
平気で人前で叱責し、恥をかかせることを何とも思わないのはどうしてか。
どうしてそんなに人が許せないのか。
いずれもタイの人たちには受け入れがたい。
注意するのなら人目を避ける
実際、タイで人に意見するということは大変なことなのだ。
「我慢はお互いさま」という暗黙のルールに反し「人の生き方にケチをつけた」というところにつながっていくからである。
だから、よほどのことがなければ人に意見したり注意したりしない。
さらに、メンツにとても拘る性格なので、どうしても人に注意、叱責をしなければならないときは、たとえ子供の前であろうと人前を避けるのが常識である。
タイの人たちはちょっとした叱責で自殺したり叱った人を殺してしまうことがある。
叱られ慣れていない彼らにとって、叱られる、注意される、というのはそれほどショックなことなのだ。
国家レベルでもタイ人絶対善説
自分が絶対善、の思想は国家レベルでも起きる。
たとえば、他国でタイ人が麻薬の密売で捕まり死刑になったとする。
日本人だと、法に触れるようなことをしたのだから止むを得ない、と考える。
しかし彼らは、自分たちが絶対善、この場合はタイ人が絶対善だから、たとえ犯罪者であれタイ人を処刑するのはひどい国だ、と声を上げるのである。
というわけで、タイで外国人とタイ人が裁判を起こせば、たいていタイ人が勝つ。
タイ人絶対善説が適用されるからである。
タイには反省という言葉がない
日本人は叱られてそれが道理に適っていれば反省する。
世界でも珍しい叱り好きの反省好きだ。
タイ語の辞書には「反省」という言葉すら載っていない。
自分は絶対に善、というところからすべてが始まっているのだから自分が悪いと思うことはまずないわけだ。
タイの人たちに反省を促すのは難事である。
たとえば、一方通行を逆走行する車があれば日本では盛大にクラクションを鳴らす。
あるいは「バカヤロー!」と怒鳴りつける。
でもタイでそれをやれば大喧嘩になる。
「決められたことを守らず危ないことをするから怒鳴ったのだ」
そんな理屈は通じない。
怒鳴られた方はそんなことが問題なのではなく「怒鳴られた」ということに逆上する。
どうしてかというと、逆走行は確かに悪い。
けれどそれより悪いのは逆走行した自分ではなく自分に害なす怒鳴った者なのである。
ようするに社会的悪と個人的悪、どちらにウェイトを置くかの問題。
逆恨みではなく正当な怒り
日本人はこういう場合、怒鳴った者に恨みを抱くのを「逆恨み」というけれど、タイでは逆恨みではない。
社会的な悪が基準ではなく自分が基準なのだから、それは逆恨みではなく正当な恨みなのである。
生きる原理が違うのだ。
上にも挙げたように彼らは人に意見されるのが大嫌いで、その意見の善し悪しはさておいて、意見されたということに対して腹を立てる。
言わなきゃわからないし、言うと怒る。
なかなかタイ人のようにはふるまえない。
タイに暮らす日本人には頭の痛い問題である。
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