靴の脱ぎ方マナーで人間性が判断できる?

文化

日本人は家に上がるさい、靴をわざわざ反対に向ける世界的にも珍しい習慣を持つ。その習慣を支持する人は多く、きちんと反対に向ける人は出来た人間だと賞賛され、向けない人はだらしない人間だと叱られる。靴の脱ぎ方は人格にどう関係するのか、という話。

 

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玄関あっての靴脱ぎマナー

日本では靴を脱いだ後、つま先をドアの方に向けて揃えるのが礼儀とされている。
この靴の状態を船にたとえて「出船」、反対につま先が家の中の方を向いている状態を「入船」と呼ぶのだそうだ。
もちろん我がタイ国にこういうマナーはないし、しようと思っても靴のつま先をドアの方に向けて出船にすることはできない。
なぜなら、タイには玄関に相当するものがなく、ドアを開けたらそこは居間。

それを知らない日本人は靴のまま部屋へ入ってしまい、慌てて靴を脱ぐことがよくある。
靴は通常、ドアの外で脱ぐ。
つまり、つま先をドアに向けると入船になってしまう。
さらには、入り口のドアに対して横から靴を脱ぐ場合すらある。
出船入船の礼儀作法を厳守している人がタイに来たら錯乱して靴を放り投げてしまいたくなるに違いない。

タイの靴に関するマナー

ついでにタイの靴の脱ぎ方マナーについて調べてみたのだが見当たらなかった。
タイは履き物が一般庶民にまで使われ始めて日が浅い。
唯一あったのは
「外国へ行ったとき、ドアの外で靴を脱ぐのは恥ずかしいので止めましょう」
というタイらしい注意だけである。

タイでは靴は部屋の外に脱ぐ

タイでは靴は部屋の外に脱ぐ

ちなみにぼくがタイに来た頃、田舎ではみなゴムサンダルで、靴を履いている人などほとんどいなかった。
サンダルはみな村の雑貨屋で買うものだから、一度脱いでしまうとどれが誰のものやらわからなくなるため、各自がサンダルの適当な部分をナイフでえぐって目印にしていた。

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なぜ日本人は靴の向きを変えるのか

そもそも、どうして日本人は靴を反対向きにするのかというと、いざというときさっと出陣できる、という武士道の名残だそうだ。
いつでも出航できるように備えておく出船の心。
日本人はこういう理屈に心をくすぐられやすい。
しかし、いざというとき、本当に役に立つものだろうか。
普通に脱いだ靴を履く場合との差はせいぜい1秒。
この差が命取りになる状況では裸足で飛び出すような気がするのだが。

日本式靴脱ぎマナーの現実

家の者が出船にするのはわかるとして、一緒に出陣したり一刻を争って飛び出したりするはずのない客までがどうして出船にしなければならないのだろう。
まるで、一秒でも早くその家を出たい、逃げ出したい、といわんばかりである。
これはそういう心構えを教えたものだ、という人もいるけれど、靴を脱ぐたびに出船の心に思いをよせるなんてことはなく、何度も繰り返しているうち習慣化して、そうしないと気が収まらなくなっているようにも見える。
高じては、自分の靴だけでなく、ほかの人の靴が揃っていないのも気になって仕方ない。
これが現実ではないだろうか。

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ケツ見せ問題を解決した偉大なる日本人

入船で入り出船に向きを変えるごく自然な方法は、脱ぐときにくるり後ろを向き、出船で脱ぐことである。実際、この方法を行う人は少なくない。
でもこれでは、
「家人に尻を向け失礼だ!」
と文句をつける人が出てきた。

家人に尻を向けずに靴の向きを変える。
ほかの民族であれば解決不可能というか、解決する気にもならないこの問題を日本人はやすやす解決した。
脱ぐときは入ってきた向きのまま脱ぎ、家に上がった後で膝をついて手で靴の向きを変える。
このとき、家人に尻を向けないよう少し斜めから揃えるのがポイント、だそうだ。
日本人ってめんどくせえ。

矛盾だらけの靴脱ぎマナー

しかし、こんなことをしても帰るときはどうしても家人にケツを向けてしまう。
上がるときにケツを見せるのはだめだけど、帰るときにはケツを見せてもかまわないのはどうしてだろうか。
しかも、靴を履いてそのまま出るわけじゃなく、くるり身体の向きを変えて、
「お邪魔しました」
などと家の人に挨拶をするのである。
靴の向きを変えたがゆえ、再度身体の向きを変えなければならないこの矛盾。
それなら最初から入船で脱いだ方が合理的なのではないか。

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両立しない行為

そもそも、出船の心と家人に尻を見せないという両立しない行為を同時に行おうとするからおかしなことになるのである。
ケツを見せることが本当に失礼なのであれば、お互い向き合ってカニのように横歩きで進むしかないのじゃないかと思う。
それか、神社の神主式にまっすぐ家に入り、帰りは後ずさりしながら靴のところまでくるとかね。
これだとそのまま玄関を出て家の外で向きを変えればいいわけだ。
でも、しつこい、いや、おもてなしの心を持った家の人が道路まで見送りに出れば、そのまま後ずさりしなければならず、車にはねられる危険がある。
礼儀作法を極めるのも命がけである。

靴の脱ぎ方を見ればその人がわかる

「靴の脱ぎ方を見ればその人がわかる。靴を揃えると心が揃い、心が揃っていると靴も揃う。靴を揃えて脱ぐ人は心の揃った人である」
「靴の乱れは心の乱れ。自分の靴だけでなく、誰かが乱れた脱ぎ方をしていたら、揃えてあげよう。そうすればきっと、世界中の人の心も揃うだろう。さあ、今日も感謝の気持ちで靴を揃えよう」
素晴らしい。
争いをしている人たちに教えてあげたいね。靴で世界は平和になれるのだと。
そういえば昔、アメリカの大統領に靴を投げつけた記者がいたけれど、あれもきっと心が乱れていたからだ。
どうせなら片方ずつではなく、両方揃えて投げつけるべきだった。

果たしてタイ人は心が乱れているのか

靴の脱ぎ方を見ればその人がわかる。
この説でいけば、タイには心の乱れた人ばかりということになる。
靴の脱ぎ方に関するマナーなどないから靴を揃えて脱ぐ人はあまりいない。

タイ人と靴

心が乱れまくっているつれあい

幼い頃は裸足で野山を駆け回り、長じては馬が後足で蹴飛ばすように靴を脱ぎ捨てるつれあいなんかもう心が乱れまくって病院にでも入れるしかないようだ。

人格とマナー

もちろん、出船入船に異を唱えているわけではない。
習慣、行儀作法というものは他所からみればどこかおかしなところがある。
そんなものだ。
でも、それを守る人は守らない人が許せなくなってくる。
これが問題だと思う。

靴をきちんと脱ぐから心の揃った人。靴の脱ぎ方がなっていないから心の乱れた人。
あいさつをきちんとするから出来た人。あいさつが出来ないから駄目な人。
こういう言い方を好んでする人が少なくないけれど、どうだろう。
先年、日本で猟奇的な殺人事件があって、その犯人を知る人はNHKのインタビューに対し、こう答えていた。
「あいさつのよくできるよい青年でした。彼がこんなことをするなんて信じられません」
きっと靴もきちんと脱ぐ青年だったに違いない。

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コメント

  1. tt より:

    挨拶をよくする青年だったって、それが本当か分からないですし、そもそも最近は普通に住んでいたら挨拶する機会は日常的にはとても少ないです。というか、すれ違ったら軽く挨拶するくらい普通なので、あいさつのよくできるいい青年だったって改めて言うのは違和感しかないですね、

    • ushiom ushiom より:

      最近は日本もずいぶん変わってきているようですね。
      人とすれ違いそうになったとき避けずにぶつかってくる人が多いのだとか。
      ちょっとびっくり。
      あいさつとかマナーは社会生活を円滑に送るために不可欠なもので、その規範から外れた人を批判したくなる気落ちはわかりますけど、性格の良し悪しとは関係ないと思っています。